トーマス・オマリーのつぶやき[管理]
知らぬ間に後期高齢者に仲間入りしてしまった。
この年齢になると知力、体力とも衰えがひしひしとわかるようになったが、それとは逆に何かを恐れるということが無くなってきていることに気づく。もう一度舞台をやってみようという決断もその一つだ。
2024年   12月  
 2024年12月28日(土)   作詞のこと
思えばたくさんのミュージカルの台本を書いてきました。
ミュージカルには歌がつきものです。生まれて初めて書いたミュージカルの台本には、歌詞は書かず、別の方が作詞をしてくれました。第2作目もそうでした。第2作目その後、何年もして再演があり、それを機会に自分が詞を作り直しました。

第3作目は「川の流れのオルゴール」という演目で、試しに雰囲気だけでもいいから詞を書いてほしいと演出に言われて、思うまま生まれて初めてミュージカルの詞を書いてみたのです。
何とか合格点をいただき、そのままの詞でミュージカルは作られました、作曲の佐藤先生からの適切なアドバイスや、お叱りをいただいたおかげで、多くの方から詞の出来栄えについてお褒めのお言葉をいただきました。
やがては、静岡市こどもミュージカルの「いつかとべるのものがたり」でも何曲か作詞を頼まれ、これに川辺真先生が曲をつけてくれました。
川辺先生には「君は、作曲家のことを一切考えずに詞を書いている」と言われてしまいました。「ただし、自分にはその方がやりやすいけど・・・」とも言ってくれました。

自分で書いた詞を評価するのはおかしいですが、「季節の中のこどもたち」「川の流れのオルゴール」のテーマソングはお気に入りです。

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 2024年12月27日(金)   悪者退治の話
静岡市こどもミュージカルは、昔からストーリーが悪者を設定し、それに普通の子供たちが立ち向かうという冒険ものが多く見られた。自分が実行委員出会った時も、よくプロデューサーと「いつか、悪者退治でないミュージカルをやりたいね」と話したものでした。実は悪者退治の話は、結構苦労をしないでできるものなのです。(悪者退治の物語を書かれた方、申し訳ありません)
自分が書いた脚本はどうだったのか、振り返ってみました。
ありました、悪者退治が・・・・
見方にもよりますが「季節の中のこどもたち」も悪者役?は存在します。
純君に嘘をついた大人たちです。
でも、純君は悪者を退治はしません。許すまではしませんが、共に生きる道を選択します。
したがって、このミュージカルはいわゆる悪者退治ではありません。
思い当たるとすれば、ダッチェス家族を捨てたボンファミーユ夫人の執事を退治したミュージカルを書きましたが、これが唯一の悪者退治でした。

「生命の樹」では、大地や海が悪者である「災いの魔王」と戦いますが、原作を読んだりミュージカルをご覧になった方はお気づきでしょう。あの魔王は、大地の心の中に生まれた、海へのどす黒い感情そのものです。あの物語は、そういう意味で悪者退治ではありませんでした。
江崎雪子さんは、健康てある妹さんに対して生まれた、自分の心の闇と戦い、それを題材に「生命の樹」を書いたのです。

自分が、自分の心の闇を脚本にしたらどんな物語ができるだろうか?
ちょっと寒気が・・・インフル?

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 2024年12月26日(木)   あなたが大好き
2000年の静岡市こどもミュージカル「生命の樹」の主題歌として、江崎雪子作詞、川辺真作曲の「あなたが大好き」という歌が作られました。最初は主題歌として、登場人物の名前などが入った詞だったようですが、川辺先生のアドバイスもあって、もっと広い意味を持った詞になりました。
この歌は、静岡市こどもミュージカルのテーマソングとして、歌い継がれていましたが、残念ながら今は歌われていないと聞いています。
当時、静岡市こどもミュージカルもホームページを担当していた私は、その曲をホームページに掲載をしました。
ある日、台湾の女性からメールが届きました。内容は、以下のようなものでした。

「私は台湾に生まれて育った女性です。縁あって台湾に仕事に来ていた日本人の男性と結婚し、日本しかも静岡県の焼津に行くことになりました。
ただ、誰も知らない日本に行くことに不安をおぼえていました。そんな中、ホームページでこの曲を聴き、詞の意味を婚約者に教えてもらったのです。こんな素敵な詞を書ける日本人がいるなら、自分は大丈夫と思い、日本に行く決意が生まれたのです。
お願いがあります。静岡の焼津で結婚式を挙げますが、その席でこの歌を歌っていいでしょうか?」
そのような内容でした。

後日、彼女から手が意味が来ました。
「出席者全員で合唱し、素晴らしい式になりました」

江崎雪子の思いは、海を越えました。
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 2024年12月25日(水)   真夏の夜の夢
以前、何回か日本平の野外劇場で「真夏の夜の夢」を公演したことがあります。最近では「真夏の」と言わず「夏の」と呼ばれることが多いですが、自分としては「真夏の」という方が好きです。原作のままで公演すると4時間ほどかかってしまうため、かなりはしょっての脚本を書きあげました。実にふざけた作品です。
ボトムたち職人が繰り広げる、田舎芝居を観て、シーシウス王たちが、下手な演技の中にも魂を込めた職人たちの演劇に感動し、やがて大騒ぎした恋の争いも、静かな平穏の闇に溶け込んでいく・・・そんなお話です。
この物語は、実は「ロミオとジュリエット」とほぼ同じ時期に、シェークスピアによって書かれていて、職人たちの田舎芝居はまさに「ロミオとジュリエット」のお話です。
自分の勝手な憶測を書きます。
シェークスピアは「ロミオとジュリエット」を書き上げ、グローブ座での公演に向け、猛練習を続けています。しかし、役者はあまりにもうまく演技しようとしていて、何か足りないのです。シェークスピアが何度も指摘しても一向に良くなりません。シェークスピアは困り果て、もう一つ脚本を書くことにします。それが「真夏の夜の夢」です。舞台にとって何が一番重要なのかを、この作品は語っています。

蛇足ですが、「真夏の・・・」中で、好きな台詞は以下の台詞です。
オーベロン「おい待てよ、わしはお前の亭主だぞ!」
ティターニア「へえ、そうなの?じゃあ、私はあんたの女房ってわけ?ふん!」

・・・すごいバトルです。
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 2024年12月24日(火)   生命の儒
静岡市こどもミュージカルでは、2000年に江崎雪子さん原作・脚本で「生命の樹」を公演しました。1998年の公演終了後、千代田の江崎邸を訪問し、江崎雪子さん原作を書いていただくよう交渉をしました。その時が雪子さんにお会いした最初でした。幸運にも雪子さんからご了承にお返事をいただき、書き上げていただいた原作は「生命の樹」という題でポプラ社から出版されることとなった。
それから、その原作をもとに脚本が作られたのですが、これがまたうまくいかず、結局、雪子さん自身が脚本を書き上げ、その脚本でミュージカルを行うことに決めたのです。
本番公演も近づいた夏休み、公開練習という形で、私の出身小学校の中藁科小学校体育館で通しけいこなどしました。この日は雪子さんも車いすに乗って、会場にかけつけてくれました。
本公演まで2週間ほどしかないのに、俗に言う「でき」は最悪でした。その時の雪子さんの表情は心配で青ざめていたように思えます。
「大丈夫です、こどもたちは本番で化けますから・・・・」と訳の分からないことを雪子さんに伝えたことをおぼえています。
本公演は、4回公演でした。こどもたちは見事に化けました。2回目の公演以降、当日券の売り上げ枚数が急激に伸びていったのです。評判を聞き、そしてまた観たいという方が多くいたのでしょう。公演は大成功でした。
大地と海という二人の少年が、ピカプの国から帰るときの呪文に、自分の名前が入っているのが、ちょっと自慢です。

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 2024年12月23日(月)   中藁科小学校
私は小学校一年生の5月、榛原郡金谷町の金谷小学校から静岡市立中藁科小学校に転校しました。金谷小学校も充分田舎にありましたが、中藁科小学校はくらべものがないような田舎にありました。静岡駅から大原の新田という集落まで、タクシーに乗って移動したのですが、当然舗装などされておらず、砂埃を巻き上げての移動でした。
早速、母といっしょに小学校に行きました。1年は1組しかありません。なぜか、転校生の紹介は校庭で行われました。校庭の真ん中には大きな銀杏の樹がありました。その樹の下に五十数名の1年生が集まっていました。みんなの目がきらきら輝いていたのを思い出します。
その日から、中学校を卒業するまで、その大銀杏を眺めながら通学をしました。
「季節の中のこどもたち」に銀杏の木の伝説を書きましたが、その話はまた別の機会にお話しします。
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 2024年12月21日(土)   ミュージカルとの出会い
1997年、高校の同級生だったM.Tさんから誘われて、静岡市こどもミュージカル実行委員会のメンバーになったのが、自分がミュージカルに関わったきっかけでした。その頃、経営していたソフトウェア作成の会社が、いくつかの県外の仕事に失敗して、個人的にかなり落ち込んでいた時期でもありました。それまで、舞台のことにはまったく無関心で、ほとんど観たこともありませんでした。結論的には、この関りは自分の高揚につながりました。
まったくの素人ですから、当然舞台のことは何も知りません。舞台の上手、下手を「じょうず」「「へた」と言ったり、「はける」や「つら」などの意味がわからず苦労しました。
静岡市から補助金を受けて、実行委員会形式で運営される静岡市こどもミュージカルでは、様々な問題が起こりました。最も大きな問題が起きたのは、1997年12月でした。作成された台本の中に、過激な台詞があって、これに問題を唱えた保護者から苦情が来たのです。結局、年が明けてすぐ十数名の子供たちが、ミュージカルを去ることになってしまいました。
それからは、スタッフ一同大変でした。それでも、8月に無事、舞台は開演され、苦労したせいもあって、参加した子供たち、保護者、スタッフとも大感動でした。
実は、まだその頃、「X」や「ブログ」もなかったのですが、自分でホームページを立ち上げ、そこに「静岡市こどもミュージカル事務局長のつぶやき」のようなページを作り、本番公演まで発信続けました。
公演後、保護者会主催で打ち上げ会が開催されることになりました。そこで公演したミュージカルのパロディ劇をやることになりました。自分が書き続けたブログを見た保護者の皆さんから、その台本を書くことを強要されました。
この台本が、自分にとって人生最初の台本となりました。
しかも、その台本に登場する妖精役で、人生初舞台に立つことになったのです。

その評判ですか?少なくとも子供達には受けました。
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 2024年12月20日(金)   台本
「季節の中のこどもたち」の台本は、平成16年に静岡青年会議所創立50周年のイベント用に江崎雪子さん原作「12歳僕の夏」をベースにミュージカルとして書き上げたものです。内容が親の離婚と再婚話の中で揺れ動く少年の物語であったため、青年会議所の皆さんも、当初かなり難色を示したいました。それでも多くの方々が地道に説得してくださり、何とかご了解を頂いたのです。実は、この台本をもっと気に入らない人がいたのです。原作者江崎雪子さんでした。台本を書く前に、江崎雪子さんの父である千萬人氏に相談したのですが、「この作品はミュージカルにはならないだろう」と言われてしまいました。火が付きました。
一幕に自分自身の少年時代の経験を織り込み、どちらかというと暗い内容を多少明るく書きました。江崎雪子さんはこの台本を見て、とてもショックを受けたように思います。いろいろなダメ出しがメールで届きました。江崎雪子さんは原作の前作として「さよならぼくのトラマル」という物語を書いていて、この中で主人公の純君が、犬アレルギーのおじいさんのためにトラマルという犬を捨てにいくというシーンがあります。江崎さんはこの話を入れて欲しいと強く言ってきました。今になって、その気持ちがよくわかります。結局自分も自分を捨てたおとうさんとお同じじゃないかと葛藤するベースであったからです。結局、台本には入れませんでした。
江崎さんから上演許可が届いたのは、本番公演の1週間前でした。
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 2024年12月19日(木)   オリオン
今年も、空にオリオン座がきれいに見える季節がやってきた。
オリオン座には、1等星であるベテルギウスとリゲル、それに2等星のベアトリックス、サイフ、三ツ星(ミンタカ)、(アルニラム)、(アルニタク)などで構成され、冬の星座の中でとても目立つ星座で、冬の星座たちを見つける入口のような存在である。
「季節の中のこどもたち」の原作「12歳僕の夏」にはベテルギウスがペテルギウスと記載されていたが、台本を書いている段階で「ぺ」ではなく「べ」であると指摘され、そのことを江崎さんに伝えたところ、とても驚いていたことをおぼえている。
また原作の中で、北山先生が地球からリゲルまでの距離を約600光年と言っていたが、現在では役860光年とウィキペディアに書かれている。
挿入歌「リゲル」の詞に「600年の光の旅の・・・」とあるが、当然この詞を直すつもりはない。
オリオンを眺めながらよく考える。江崎さんにとってオリオンはどのような存在であったのか?今、思うに江崎さんにとってのオリオンは、私たちが感じる桜のようなものだったのではないかと思う。「いろいろあったけれど今年も桜の花を見ることができた」と感じるように、オリオンを見れたということは、今年も命がつながったと感じたのではないだろうか。
今夜もオリオンはしっかりと輝いている。
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